2つの「ナクバ」 ──パレスチナとイラクで

「ナクバ」/ ナジュワ・シェイフ
El Nakba / Najwa Sheikh

2007年5月14日
─ナブルス通信2007.5.16号による─


◇2つの「ナクバ」 ──パレスチナとイラクで

イスラエルの建国記念日がやってきて、パレスチナ人たちは59回目の「ナクバ」(アラビア語で「大破局」を意味する)を迎えています。虐殺、追放、村の破壊の末、難民になり、故郷を失ったのが、パレスチナ人に起きたナクバ。

最近、街を分断する隔離壁が建てられているという、イラクのバグダードでも、同じような事態が進行していると言えます(折しも日本政府はイラク特措法の延長を衆院で通過させました)。

「イラク破壊:死者100万人・負傷者200万人・家を追われた人々300万人」という数字も出ています。(詳しくは米国のイラクに対する戦争をジェノサイドの観点から見る以下の文章に。)
http://teanotwar.seesaa.net/article/41592224.html

バグダードからブログで日々の感情を綴り、送り届けてくれていたリバーベンドさんの一家も、とうとうイラクを去ることを決めたという知らせが届きました。

「それで、私たちは忙しくしている。私たちの人生のどの部分を後に残すかを決めようとすることに忙しくしている。どの思い出がなくても済むのか?(中略)

おかしいのは、私たちの生活はどうやら些細なことに占められているように見えること。私たちは、写真アルバムを持っていくかどうかを議論している。 4歳の時から持っている私のぬいぐるみを持っていってもよいかしら? 弟Eのギターの余地はある? どんな服を持っていく? 夏服? 冬服も? 私の本については? CDや赤ちゃんの写真についてはどうかしら?

問題は、私たちはこれらの物を再び見ることができるのかどうかわからないということだ。家を含めて私たちが残すもの何でもが、いつか、もし帰って来たとき利用可能なのかどうかわからない。ばかものが侵略しようと思いついたという、ただそれだけのために、国を去らなければならなくなるほどの不正義が、すべてを飲み込んでしまう時もあるのだ。」

(リバーベンドの日記  4 月 26 日 万里の長城−隔離壁…より、TUP速報による)
全文は:http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/718

イラクの人々が平安を取り戻し、故郷に帰れる日が少しでも早く来ることを願いながら、59年間、帰還の望みを果たせていないパレスチナ人の思いを伝えます。ナクバが何を取り上げ、どんな思いを残していくのか。多くのパレスチナ人に共通する体験と思いを書いたガザのナジュワさんの文章です。[ナブルス通信]

 

◇「ナクバ」──失った故郷を想う

「ナクバ」
ナジュワ・シェイフ
2007年5月14日

El Nakba
Najwa Sheikh
May 14th, 2007


私はガザ回廊の南にある難民キャンプで生まれたパレスチナ難民。私の記憶が紡ぎ出されてくるのは、私のホームであるハーン・ユニス。

子どもの頃、両親や祖父母が「エル・マジュダル」という言葉を口にするのを聞いていたのに、私は自分のオリジンについて考えたり、知ろうとさえしなかった。私にとって「エル・マジュダル」は何も意味しない、両親たちの特別な思い出が詰まった想像上の場所だった。

ある日、それが変わった。学校の教師が自分の出生の源となる場所について作文を書くようにと私たちに命じた。家に帰り、この宿題について父に話すと、父はとても不安げになり、興奮し、最後には自分の宝物について私に話をする機会を作ってくれた。父は話を書き留める用意はできているかと私に尋ねた。

ありったけの情熱、嘆き、悲しみ、喪失の感覚をこめて、70歳になる父は故郷のエル・マジュダルについて語った。尊厳に満ちた力強い声で語る父は、愛する者について語る男のようだった。書き留めるのについていけなくなった私は、書くのをやめて、言葉の流れを聞き続けた。湧き出てくる言葉は、父の愛する故郷──人々が幸せで、シンプルな人生を生きていた彼のパラダイスを語っていた。

翌日、私は教師にクラスのみんなの前で作文を読むようにと言われた。私は両手に力を込めて、ゆっくりと父の話を語りだした。そうするうちに、私は新しい感覚が自分の中に生まれているのを感じた。私のオリジンについて尊厳と情熱を求める感覚が生まれていた。

後になって、1998年に私は自分の故郷を訪ねる機会を得た。米国にいた兄を訪問するために私はビザを取りにテルアビブの米国大使館に行き(その頃はテルアビブまで行くことができたのだ)、ガザへの帰り道、私は生まれて初めて「エル・マジュダル」を見た。

私は今でもとてもはっきりとエル・マジュダルに着いた時のことを覚えている。心臓がどきどきして、私は嬉しくて、身体を震わせていた。失った家についての両親の言葉を思い出そうと一心だった。

両親がその木陰で平安さに浸ったいちじくの木、街の中央にあるモスク、両親が決して忘れることのないいちじくの木のとても甘い果実……。

私は両親に見たことをすべて後で語ってあげられるようにと、記憶することに集中した。街に足を踏み入れると、いくつものアーチを持ったモスクがあったが、イスラエル人たちはそれをコーヒーショップや鍛冶屋やバーにしてしまっていた。古い建造物を左側につけている一軒の家では、この建物の壁が話せることができて、誰がこの場所の本当の持ち主なのかを告げてくれたらいいのにと、私は願った。

家に戻ると、両親は不安げに私を待っていた。二人とも私の旅や、大使館での質問などには気をかけていなかった。ただ、マジュダルのことだけを考えていたのだ。

「おまえは何を見てきた? すべては今も同じかい? モスクはまだあったかい?」
父は息継ぎもせずに尋ねた。

「うん」と答えながら、私は両親のなかに、喪失や嘆き、絶望のトーンがあることを感じていた。私は両親にモスクはまだあるが、その中は商店になっていることを話した。父はそれを聞いて、悲しんだ。二人を連れていけたらどんなにいいだろう?だが不幸なことにそれはかなわないのだ。父は続けた。モスクのミナレット[尖塔]は当時のままにあったかと。私は「あった」と答える。父はお祈りへの呼びかけの声が空まで届くようだったんだと話した。

数年後、私がUNRWAで働いていたとき、父はアシュケロン(エル・マジュダル)に住んでいる私の外国人の上司に、マジュダルの写真を撮ってきてもらえないかと私に尋ねた。父はまるでおもちゃをねだる子どものように、自分の家がまだあるのかどうかを知りたがっていた。それで私は両親がともに故郷の街にもどりたい、少なくとも訪問できないかと考えていることを知った。二人とも恐れていたのだ。祖父がそうだったように失った家に戻ることなく死んでしまうことを。

数日前、私は父に電話をして、昔のことを思い出してもらった。父は私に自分が見たいのは故郷の古い家だけだと言った。毎年親戚や友人に分けていた、実がたわわになっていたヤシの木があるあの家。

ナクバは故郷を追われ、その後に続く痛みや苦しみを表すだけではない。ナクバはもっと大事なこととして、この悲劇的な記憶を世代から世代へと──祖父母から父母へと、娘、息子たちへと、平和と帰還への希望をひとつもなしに伝えていくことでもある。

けれど、私の子どもたちはエル・マジュダルへの私の思いを分け合ってくれるだろうか。子どもたちは同じ記憶を分かち合うだろうか? それとも、「エル・マジュダル」は子どもたちにとって、どんな感情からも、大切さからも切り離された言葉になってしまうのだろうか。

 



*ナジュワ・シェイフさんは、ガザのヌセイラート難民キャンプ在住。3人の子どもたちの母親。

翻訳:ビー・カミムーラ

(原文はアラビア語でアル・ハックのサイトに収録。英語版はいまのところ、サイト上には上がっていません)

(編集責任:ナブルス通信

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