『パラダイス・ナウ』と『ミュンヘン』

──映画に見るイスラエル−パレスチナ
Shall We Not Revenge?
ウリ・アブネリ/Uri Avnery

2006年2月4日
─ナブルス通信2006.2.15号による─


今回は日本でも公開が始まったスピルバーグ監督の新作『ミュンヘン』と、オスカー(アカデミー)賞の外国語映画部門に初めてパレスチナ人監督作品としてノミネートされた『パラダイス・ナウ』について、イスラエルで平和運動を行ってきたウリ・アブネリ氏の批評を送ります。

映画は本当のことを言えば、自分が見てみない限り評価ができないもの。どのようなベクトルから見るかということでもまったく評価は違ってきます。

若き頃はシオニストの武装地下組織イルグンに所属し、その後は長きに渡って占領に反対してきた82歳のイスラエル人アブネリが2本の映画をどう見たかを伝えてみようと思います。

なお、かなりどちらの映画に関してもネタバレがあります。お気をつけください。(『パラダイス・ナウ』が日本で公開されるかどうかというのは、今の時点では把握しておりません→追加:公開されることになりました。07年3月〜)[ナブルス通信]



『パラダイス・ナウ』と『ミュンヘン』
──映画に見るイスラエル−パレスチナ

ウリ・アブネリ

Shall We Not Revenge?
Uri Avnery

2006年2月4日



今回の評議会選挙でパレスチナの人々がなぜハマスを選んだのか、その意味を知りたいと思うなら、映画『パラダイス・ナウ』(Paradise Now)を見る必要がある。複数の国際映画賞を受賞し、本年度(2006年)のアカデミー賞外国語作品部門にノミネートされているこの映画は、何千何万の言葉を費すよりもはるかに深く、パレスチナの真実の姿を伝えてくれている。

この映画の脚本・監督に携わったナザレ[現在はイスラエル領]出身のハーニー・アブ・アサドと出演者はパレスチナ人。(プロデューサーのひとり、アミル・ハレルはユダヤ系イスラエル人)

ふたりの主人公、サイードとハーレドは自爆攻撃者だ。この映画は、イスラエルのすべての人を、そしておそらくは世界中の人々を悩ませているであろう問いに、真正面から向き合っている。

その問いとは──なぜ自爆攻撃をするのか? ひとりの人間が、朝起きて、エルサレムやテルアビブの人混みの真ん中で自分自身を爆弾で吹きとばす決断をする……そんなふうにさせるのは、いったい何なのか? さらには、こう問いかける人もいるだろう。彼らは何者なんだ? 生い立ちは? どうして彼らはこんなことをするようになったのか?

作られてからかなりの時間がたち、この映画はまた、別の問いに対するひとつの答えを提示するものともなった。すなわち──パレスチナの大多数の人たちがなぜ、こうした人間を自爆攻撃に送り出している元凶のグループを、自分たちの代表として選んだのか?

『パラダイス・ナウ』は、これらの問いのすべてに答えている。スローガンもプロパガンダも学術的なレポートもいっさい使わずに。説教・宣伝をすることもなく、一方的な称賛や激昂に陥ることもなく。『パラダイス・ナウ』は、ひとつのストーリーを提示する。そのストーリーがすべてを語っている。だから──イスラエル人でこの映画を見にいこうという人はそう多くはないだろうから──私は、一般には許されないことかもしれないが、以下、『パラダイス・ナウ』のストーリーをほぼ最後まで記すことにする。

*[注意:ここから下の*まで完全にネタバレのストーリーです]

オープニングシーン。ここで作品全体のトーンが作られる。スーハという若い美貌の女性──上流家庭に生まれ、フランスで育ったパレスチナ人──が検問所に近づいていく。西岸地区のいたるところに配置された数限りないロードプロック(道路封鎖物)のひとつだ。口ひげを生やし、スチールヘルメットに防弾チョッキを着けた威嚇的なイスラエル兵の前に、スーハが立つ。ふたりの目が合う。兵士はしゃべらない。代わりに、スーハを値踏みするように上から下へ、下から上へと視線を移動させる。次いで、スーハのバッグを調べる。ゆっくり、ゆっくりと。その間も、兵士の目はスーハから離れない。

バッグの検査を終えると、兵士は書類を持った手を差し出して、スーハに返そうとする。だが、スーハが書類を取ろうとすると、ついと手を上げて、彼女に余分な努力を強いる。そうして、ようやく兵士は、無言のまま頭を動かして、スーハに「行け」と命ずる。

わずか数分間──一方的な屈辱を与える行為、そして、ふたりの間に流れる、互いへの恐れと憎しみの感情。観客は、この女性が今まさに、この場で自爆行為を実行するのではないかと思う。だが、何事も起こらない。スーハは検問所を通過する。

西岸地区北部の中心都市ナブルスに住む、20代前半のふたりの若者。ナブルスのほぼすべての若者がそうであるように、ふたりも事実上、職には就いていない。ふたりに未来はない。希望もない。夢さえもない。貧しい家族の生活を助けるためにできることは何もない。閉塞感とフラストレーションと絶望がないまぜになった、どん底の生活。ふたりは、卑屈な態度で近寄ってくる強引な少年から20セントで一杯のお茶を買うが、そのお茶すら冷えきっている。

ふたりはひげを生やしているが、狂信的なところはかけらもない。信仰心は篤い。それはほかのみんなも同じで、それ以上のことではない。ふたりは、占領下に生まれ、占領下で暮らしている。ナブルスは四方八方、すべてをロードブロックで囲まれている。仕事はない。仕事だけではなく、何もない。誰にも顧みられずに深まっていくだけの貧困が街を覆っている。ふたりの生活の中心にあるのは、占領という事実だ。すべてが占領に始まり、占領で終わる。

この若者のひとり、サイードがスーハと出会う。ふたりの間に小さな火花が走る。だが、ちょうどその時、サイードとハーレドは、「君たちが選ばれた。明日、君たちはテルアビブで自爆攻撃を遂行することになる」というメッセージを受け取ったところだった。

地下活動グループの司令部になっている荒れ果てたビル。最後の準備が行なわれる。ふたりのひげが剃られる。髪が切られる。ふたりはパリッとしたスーツを着る。写真が撮られる。リーダーからの短い激励の言葉が、何の感情も込めずに伝えられる。リーダーは、イスラエルから名指しで追われている「生きている伝説」(今も)の人物だ。今回の自爆攻撃は、仲間が殺された「暗殺作戦」への報復として行なわれる。

爆弾を付けたベルトが自分たちの体に装着されるのを、ふたりは静かに見ている。このベルトはもうはずすことはできない、はずせば爆弾が爆発する、と伝えられる。背筋の寒くなるシーン──ふたりは、この攻撃が成功したあかつきにパレスチナ中に掲げられることになるポスターの自分たちの写真を見つめる。

実行の日。イスラエルとの境を隔てるフェンスが切断される。ふたりがそこをくぐったところで、不意に軍用ジープが近づいてくるのが見える。ハーレドは急いでフェンスの穴から戻る。サイードはそのまま進みつづけてバス停に近づき、足をとめて、幼い子どもと遊んでいる女性に目を向ける。バスがやってくる。女性と子どもがバスに乗り込む。最後に乗ろうとしたサイードは、そこで躊躇し、結局、運転手に、そのまま発車するように──自分は乗らないから──という仕草を見せる。

グループの間にパニックが起こる。サイードはどこにいるのか? 任務を放棄したのか? 裏切ったのか? 逃亡したのか? 彼らはサイードを見つけ出そうと、あらゆる場所を捜索する。一方、サイードは、爆弾ベルトを着けたままひそかにナブルスに戻り、ハーレドを探している。そして、偶然、スーハに出会う。堅く抱き合う中で、スーハはこう言う──このやり方は間違っている、普通の人たちを傷つけてはいけない、これでは絶対に占領からの解放は達成できない、と。しかし、サイードはリーダーに、もう一度やらせてほしい、もう一度チャンスを与えてほしいと懇願する。

ここで、重要なエピソードが明らかにされる。サイードの父親はかつてイスラエルの「協力者」であり、その咎(とが)で処刑されていたのだった。サイードは、子ども時代から負いつづけてきた、この恥辱、おぞましい汚れを拭い去りたいと切望している。「父は善良だったけれど、弱い人間だった」と、サイードは言う。「イスラエルはその弱さを利用したんだ。悪いのはイスラエルだ」

サイードとハーレドはついにテルアビブに到着する。貧しく荒廃したナブルスで育ったふたりの若者にとって、テルアビブは別世界に見える。輝きわたる豊かな街。自分たちには永久に手の届かない世界。林立する高層ビル群。ビキニ姿の若い娘たち。海岸で陽気に騒いでいる人々。

最後の瞬間に、ハーレドは自分にはできないと悟り、サイードにも実行を思いとどまらせようとする。だが、ハーレドはひとりでナブルスに戻ることになる。サイードは父の死の無念を晴らすため、そのまま進んでいく。

ラストシーン。バスに座っているサイード。周りには大勢のイスラエル兵と一般市民がいる。カメラがサイードの目にズームインしていく。スクリーンはサイードの目だけになる。次の瞬間に何が起こるかを思って、観客は息を止める……。

*[注意:ここまでストーリー]

この映画では、すべてが抑制された映画の言語で表現されている。通常の言葉で意味のある内容が伝えられる場面は皆無に近い。たとえ、軽い調子のシーンであっても。たとえば、ハーレドがビデオカメラの前で別れのメッセージを読み上げるシーン。カメラの調子が悪く、ハーレドは、感動的なメッセージを何度も繰り返さなければならない。仲間たちは周りに立って何かを食べている。ハーレドはみんなのほうを見て、朗読をやめ、再び初めから読み直しはじめる。もう一度。さらにもう一度。コミカルな間奏曲だ。

上映が終わったあと、私は、テルアビブのシネマテークから出ていく人たちの表情を観察した。誰もが無言で、考え込んでいる面持ちだった。この人たちは、たった今、生まれて初めて、自分たちを殺しているテロリストを、子ども・男性・女性が大勢いる真ん中でみずからを吹きとばす自爆テロリストの姿を見たのだ。ごく普通の人間として振る舞い行動する、ごく普通の若者たちを、彼らは見た。占領というものを、別の側から、占領されている側の視点から、見た。

暗い上映室に座っていた私は、ふと、自分がこのうえなく異様な体験をしたのだということに思い至った。私たちは、この映画で「犠牲者」と目されている側にいる。私たちの誰もがいつでも、あのバスに乗客になりうるのだ。そして、そんな私たちが、最初から最後まで、私たちを殺す側の人間の目を通してすべてを見てしまった。

私たちの誰もがこう思ったはずだ。ここでは軍は何の助けにもならない。たとえ、あのふたりを殺したとしても、別のふたりがまた同じことをするだろう。フェンスは、彼らの一部の侵入を阻むとしても、全員を締め出せるわけではない。国家治安機関(シンベト)は、「協力者」の助けのもとに、自爆攻撃の一部を阻止できるとしても、すべての攻撃を防げるわけではない。そして、「協力者」の子どもたちは復讐を誓うことになる。ああいった状況で育った人間がいれば、そのうちの何人かは間違いなく目的を達することになるだろう。

『パラダイス・ナウ』は、何の解決策も提示はしない。「公平中立な立場で」などという「ふり」をすることすらしていない。この映画は、私たちを真正面から「現実」に向き合わせる。私たちの知らなかった現実に、私たちが慣れ親しんできたのとは異なるアングルから。そして、私たちは、それぞれの内部に生まれる、激しくぶつかりあう感情の波で、徹底的に揺さぶられる。

同時に、この映画によって、私たちはたぶん、何らかの「解決の道」に思いをめぐらせることになるだろう。サイードとハーレドを、自爆攻撃ではない別の方向に向かわせるような「解決の道」。屈辱的な行為に、ひとりひとりの人間の尊厳と国の尊厳を破壊する行為に、貧困と絶望の日々に、終わりをもたらすことになる「解決の道」。

****

数日後、私はアカデミー賞にノミネートされているもう1本の評判の映画、スティーヴン・スピルバーグの『ミュンヘン』(Munich)を見た。それも、たまたま、ドイツで──ミュンヘンからさほど遠くないところで。

映画館を出る時に、私を招いたドイツ人が私の感想を聞きたがった。何も考えることなく、反射的に私の口から出てきたのは──何から何まで「不愉快だ!」

私が、この長大な映画を見ている間に感じたことを整理できる時間が持てたのは、しばらくたってからだった。私は自問した。あの映画の何が、私をあれほどまでに不快な思いにさせたのか?

まず第一に、最高の映画テクニックを駆使して最低の文化的内容を描くスピルバーグのスタイルだ。新しい啓示的な洞察のもと、深い思想を追求しているという格好を見せながら、その実、『ミュンヘン』は基本的に、善なる男たちが悪漢を皆殺しにし、血が水のようにあふれかえる、アメリカ製西部劇以外の何ものでもない。

ユダヤ人の政治家の中には、この映画が「テロリスト」を「復讐者」として扱っていると言って抗議している者がいる。事実、映画中で「テロリストたち」は何度か、自分たちに対してユダヤ人が行なった不正義と自国に対する自分たちの権利をめぐって弁明する機会を与えられているが、しかし、これは「公平中立の立場に立っている」という印象を与えるための、言わばリップサーヴィスであり、見せかけでしかない。ミュンヘンでの襲撃シーン──最初から終わりまで、断片的に、何度も何度も繰り返される──に登場するアラブ人は、惨めったらしく醜く汚らしく臆病な生きものとして描かれ、一方、イスラエル人の復讐者アヴナーはその対極にある。ハンサムで高潔で勇敢でスマートな人物……要するに、アヴナーは、『栄光への脱出』(Exodus)*1のスーパーマンヒーロー、アリ・ベン・カナーンの若き弟なのだ。

『ミュンヘン』のアラブ人たちが良心の咎めなどまったく感じていないのに対して、イスラエル人たちは殺人を行なうたびに強い良心の呵責にさいなまれる。「ターゲット」を爆弾で吹きとばし/銃で撃ち、ひとりずつ抹殺していく過程で、彼らは必ず、ためらいを見せる。殺害を実行するのが、ターゲットの妻子の安全が確保されてからであることは言うまでもない。彼らは単なる殺し屋ではなく、ユダヤ人の殺し屋なのだ。皮肉にも、イスラエルのスローガンにあるとおり──「撃って泣く」男たち。

『ミュンヘン』では、事件そのものについても、極めて意図的な操作がなされている。事件に直接関連する重要な事実がいくつか、観客に知らされないままになっているのだ。

たとえば──

・検死結果で、殺害された11人のイスラエル人選手とコーチのうち9人は、極めておそまつなスキルしか持っていなかった西ドイツ警察の狙撃手の銃弾によって死亡したのが明らかになっていること。(この検死報告書は、今日もなお、イスラエル、ドイツ、どちらの国においても機密扱いになっているが、スピルバーグほどの要人であれば、当然、内容は知っているはずだ)

・人質となったイスラエル人選手の命運を決定づけたのは、当時のイスラエル首相ゴルダ・メイアと、ドイツ出身の閣僚たち──全員が「偉大な英雄」──であったこと。誘拐犯グループは、自分たちを人質ともども、アラブのどこかの国──イスラエルに収監されているパレスチナ人の囚人と人質との交換が、確実に実行される場所──に連れていくようにと要求したが、ゴルダ・メイアらは、それを拒否した。

・ミュンヘン事件の報復として殺されたパレスチナ人たちは、実際の事件とは無関係だったこと。モサドは、たやすく狙えるターゲットを探し、ヨーロッパ各国の首都に駐在していた、無防備に等しいPLOの外交官たちを選んだのだ。

しかし、私が何にも増して最大の嫌悪感を抱いたのは、『ミュンヘン』全体を覆うスピルバーグ流のどうしようもない低俗さだった。露骨でどぎついセックスシーンなどは、不要であるばかりか、ただひたすら悪趣味と言うしかない。

『ミュンヘン』が、イスラエル−パレスチナ紛争を理解するのに役立つことは断じてない。とどのつまりは、ありふれたギャング映画にすぎず、スピルバーグがイスラエル−パレスチナ紛争を中心に置いたのは、要するにオスカーのため──長い間なかなか獲ることができなかった念願のオスカーを今一度、というところだろう。*2


 




※筆者ウリ・アブネリ(Uri Avnery)はドイツ生まれ。ジャーナリスト。1948年の戦争に参加し、1950〜1990年までイスラエルの国会議員を務めた。イスラエルによる占領の停止とパレスチナの独立国家創設を目指す団体「グッシュ・シャローム」の設立(92年)に大きく寄与した。

グッシュ・シャローム
http://zope.gush-shalom.org/home/en/index.html


翻訳:山田和子


[翻訳者註]

*1『栄光への脱出』=イスラエル建国を描いたレオン・ユリスのベストセラー小説(1958)。1960年にオットー・プレミンジャーによって映画化された。主人公アリ・ベン・カナーンを演じたのはポール・ニューマン。

*2 スピルバーグが初めてアカデミー賞監督賞にノミネートされたのは『未知との遭遇』(1977)。以来、絶対確実と言われた『E.T.』(1982)も、露骨なオスカー狙いの『カラーパープル』(1985)も、受賞することはできず(背景には、アカデミー協会との確執などがある)、結局、初のオスカー獲得は『シンドラーのリスト』(1993)まで持ち越された。その後、『プライベート・ライアン』(1998)で2度めの監督賞を受賞している。


◇『パラダイス・ナウ』について

ベルリン映画祭で最優秀映画賞を獲得したこの作品は、ヨーロッパで高い評価を受けただけでなく、米国でも地道に観客を増やしていると伝えられています。

ヨーロッパからはたとえばこんな評が。(コリエレ・デッラ・セーラ紙、イタリア)

「中東をめぐるフィルムグラフィーの内でも並外れた作品である。監督はかすかなアイロニーさえ保ち続けることにつとめ、正当化ではなく説明し、生死の境界がフィクションとドキュメントの境界さながらに儚い土地の扉を開く。物語は喉に腹に心臓に脳髄に食い込む。政治的に逆効果な犯罪的行為を前にしてさえ、心を動かされずにはいられない。普通であることを不可能にされた二人の青年の逡巡と思考が見る者をとりこにするのだ」(Maurizio Porro, 'Corriere della Sera', 14 ottobre 2005、EmmeEmme訳)

公式ホームページ:
http://wip.warnerbros.com/paradisenow/

フォト・ギャラリー:
http://www.luckyred.it/download/paradise_gallery_hi/index.html

アルジャジーラが伝えた『パラダイス・ナウ』:
http://0000000000.net/p-navi/info/news/200511250509.htm

[追加]日本での公開 07.3月〜
日本語公式サイト:
http://www.uplink.co.jp/paradisenow/index.php

◇『ミュンヘン』について

大々的な宣伝がなされているこの作品については、様々な評価が雑誌にもネット上にも上がっています。「これこそがスピルバーグ!」というものや「良心的社会派作品」というものなど、いろいろ。

ここでは作品の評価そのものではなく、上の記事でアブネリ氏も言及していた1972年のミュンヘンオリンピック事件の真相について、少し補足を。

イスラエル人オリンピック選手9人がパレスチナ人ゲリラたちに殺されたというのが映画『ミュンヘン』の主題となる暗殺の発端になっているわけですが、この殺害がじつはパレスチナ人ゲリラによるものではなく、西ドイツ警察(当時)の射撃手によるものだったということは、元ラビン首相報道官であったエイタン・ハベル氏が05年10月に暴露しています。アブネリも書いていたようにこれは多くの人が知る「機密」事項なのでしょうか。それにしても、映画『ミュンヘン』では一切無視されているのですが……。

この暴露についての詳細は
「ラビン元報道官、ミュンヘンオリンピック事件や暗殺作戦の真相を暴露」:
http://0000000000.net/p-navi/info/news/200510050628.htm

映画『ミュンヘン』に対するイスラエル政府筋からの批判:
http://0000000000.net/p-navi/info/column/200602122057.htm

ほか
イスラエルとパレスチナの問題から眺めた分析
「映画『ミュンヘン』雑感」(パレスチナ情報センター):
http://palestine-heiwa.org/note2/200602112058.htm

P-navi infoにあがった編集者ビーによる感想:
http://0000000000.net/p-navi/info/column/200602122057.htm


(編集責任:ナブルス通信

P-navi info 
[ほぼ毎日更新中。編集者ビーのblog。速報、インフォ、コラム]

06年2月上〜中旬のトピック
ガザ1週間で16人が殺される / ビリーン村、壁のルートを動かす

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